林業という哲学
「山と村の思想」(1979年、榛村純一、清文社)
日本の国土の実に3分の2は森林です。
(私はこのことを農学部の授業で初めて知りました。都市しか知らない者には、日本が山がちであることはなかなか実感しにくいのです。)
今の日本では安い外国産の木材をどんどん使うようになったため、林業は斜陽産業と呼ばれて久しいです。
国産材の生産は採算が取れないために撤退する人が相次ぎ、山村は過疎化し、充分に木が育っているのに放ったらかし状態の山が多くあります。
鬱蒼と茂る森はいかにも環境に良さそうですが、実際は木は成長するために二酸化炭素を吸収するため、育ちきってしまった森の木々は実は人間と同じように酸素を吸って二酸化炭素を吐くのみで、二酸化炭素削減の観点からいえば全くエコではないのです。
地球温暖化を本気で考えるなら、育った木はどんどん切って使い、新しい木を植えないといけないのです。
今こそ、林業を復興させる時だ!!
最近では映画にもなった「神去なあなあ日常」(三浦しをん)の影響もあり、林業に飛び込む若い人たちも増えているみたいです。
森林の機能
教育思想集団となる機能<思想運動体となる機能、奉仕・無償機能>a.山村、自然、林業、木材に関する技能集団としてb.大都市的価値観、効率本位の石油文明への批判集団としてc.生きる醍醐味(本物の味)を知る少数精鋭の信条集団として(p102)
「林業の機能」として、よく知られている「保水機能」「癒し」などと並んでこれが書いてありました。
この本のタイトル「山と村の思想」にもあるように、榛村さんがこの本で伝えたかったメッセージはまさにこれなのだと思います。
榛村さんは、ご自身が林業に長年携わっってきたということもあり、林業に対する思い入れが深く、あまりに深すぎてカルトめいた感じも否めませんが、話半分で見ても共感できました。
石油文明への批判は、私が常日頃から思っていることです。
石油の枯渇やゴミ問題が深刻化する中、なぜ日本ではペットボトル入りのコーヒーやビール、ごま油が新しく売り出されるのでしょうか。
欧米では使い捨てプラスチックの規制がどんどん厳しくなるというのに。
日本は世界の流れに逆行しています。
今後、石油に代わるものが木材であり、これからは林業の時代だと私は思っています。
雌として扱われる女性
山村の活力維持において最も大切なことは、嫁(山村婦人)の問題である。戦前、農家の嫁は、「乳役兼用無角牛」が理想とされたが、今でも山村の嫁には、過疎のしわ寄せもあって、これに類したことが要求されているかにみえる。したがって嫁がこない。自分の嫁は都市へやりたいが、自分の家へは農林業をやる嫁をほしい、というのはもう通用しないことであろう。あえて通用させたとしたら、山村の農林家は劣性遺伝化していく危険がでてくる心配がある。(p65)
私は女性なので、この現代のジェンダー観から大きく逸脱した「乳役兼用無角牛」を見て絶句してしまったのですが、この本が1979年に書かれたことを考えると、まぁ仕方のないことなのかも知れません。
この他にも「劣性遺伝化」など、女性蔑視、また人権侵害的表現が端々に出てきてちょっと引っかかってしまいました。
とはいえ、これは榛村さんの意見というよりは当時の日本の考え方の表れだと思います。
※榛村さんの論調は「乳役兼用無角牛」を批判していることを念押ししておきます。
何かとうるさい今となっては表立ってこのようなことは言わないまでも、もし女性に対する「乳役兼用無角牛」という考え方が根強く残っているとしたら、私としては残念だし、そんな社会に出て行くのはかなり不安です。
(いくらなんでも牛ってひどすぎるだろ、牛って…)
可愛い表紙の本
表紙が可愛いくて、つい手に取ってしまった一冊。
時々、こういう本の選び方をします。
普段なら読まないような内容だったり、可愛い表紙にもちゃんと内容とリンクした意味があったりしてなかなか楽しいです。
(せっかくの可愛い表紙なのに、光ってうまく撮れませんでした…是非、現物を手に取って見てください( ´ ▽ ` ))
自分が他人にどう思われているかを過剰に気にしてしまう、主人公の花しす(かしす、と読みます)。
1日の会話のほとんどを録音し、深夜に一人で聞き直して復習するという変な癖を持っています。
みんな、自分のことは、忘れて欲しくないんだ。でも忘れられて、忘れて、そして今を生きてる。あなたは、誰かと能動的に関わってゆくことが、忘れられない確かな方法であるということを知っているはずだ。でも出来ない。出来ないから、せめて、記録しておこうとしている。(中略)みんな、自分が好きなんだ。でも、愛があれば、誰かを愛してるって、強い気持ちがあったら、その人を傷つけることは、怖くなくなるはずなんだ。(p224〜225)
うーん、そうでしょうか。
確かに、愛の名の下に人を傷つけることは怖くはないのかもしれないですね。
それだけに、故意に傷つける以上に無自覚だから、気をつけなくてはならないんじゃないかな、と私は思います。
私は「愛してるから」というエゴで傷つけてくる人は嫌いだし、私自身も独りよがりな愛を押し付けることがとても怖いです。
しかし、どんなに怖くても、人は人と関わらないと生きてゆけない。
この小説は「祝福」という言葉で締めくくられています。
正直意味はよくわからなかったのですが、ジレンマを抱えながらも、あなたの前途に幸あれ、頑張れ、というエールかな?と私は受け取りました。
小説っていろんな解釈がありますよね。
私は鈍感なのでトンチンカンな読みをしてしまうことも多いのですが、自分の経験とリンクするような部分があると、パッと意味がわかったりすることもあります。
そんな時はちょっと嬉しいですね。
普段は小説を全然読まないのですが、なんだか最近は人生に悩んでいて(?)小説を読みたい気分です。
一緒に暮らすって、難しい
ゲイの大塚隆史さんが、40年に渡って男性同士のパートナーシップを築き上げるために奮闘を続けることでわかった、二人で生きるためのコツを伝授します。
全てが経験に裏打ちされていて、説得力があります。
タイトルに惹かれてこの本を読み始めたのですが、大塚さんがゲイだと最初に書いてあって少しびっくりしました。
男女がどうやってうまくやっていくかを書いてある本だと思ったからです。
しかし、二人で生きる=男女 と即座に連想してしまうのは、このご時世ではもう古い考え方なのかもしれませんね。
実際、異性のカップルに対しても参考になることがたくさん書いてあり、とても参考になります。またゲイカップルの実際についても知ることができて、面白いです。
長く付き合う秘訣
付き合い始めには、二人の人間はお互いに向き合っているものだけど、ある程度の時間が経ったら、二人で同じ方向を向いていくことが大切なんです(p90)
これ、なかなか深い言葉ですよね。
私はその域に達することができるだろうか、相手の見ているものを自分も一緒に見ることができるんだろうか…と考えてしまいました。
私は基本的に人のことはどうでもいいたちなのです。
どうでもいいからこそ干渉せず、それなりにうまくやってきたことも否めませんが。うーん、難しい…
なぜ人は一緒に暮らすのか
便利っていうのもホント。淋しくないからっていうのもホント。もちろん大好きだし…。でもね、そういうのを言った後に、全部言い切ってないなぁ、なんか言い残してるなぁっていう感じが心の奥の方にあるの。その、言葉にし難い何かがタックと付き合っている理由だと思う。それがあるうちは大丈夫なんじゃない?(p16)
なんで僕と一緒に暮らしてるの?という大塚さんの問いに対する、パートナーの返事です。これも深いなぁ。
この「言葉にし難い何か」こそが、二人の生活を素晴らしいものにしているのだそうです。
あえて言葉にするならば、「愛」でしょうか?
もちろん、愛のある生活はとても素晴らしいものだけれど、大塚さんは異様なまでに「一緒に暮らす」ことに執着し、血の滲むような努力をします。
私は結構冷めているので、すごいなぁと思ってしまうのですが、大塚さん的には愛する人と一緒に暮らすことが理想であり、それを追い求めるのが趣味みたいなものなんだそうです。
それを読んでちょっと納得しました。
例えば山登りが趣味の人に、なんでそんな疲れることをわざわざやるのか、と聞くのはちょっとナンセンスな気がします。
その人は、山を歩くこと、景色を見ることなどが心から好きだから、少しくらいつかれようと楽しんでやるはずです。
だから、一緒に暮らすことも自分の好みに照らし合わせて、気に入ればやればいいし、二人の暮らしが好きじゃないなら無理してやることもないのかな、と少し気が楽になりました。
大塚さんは今60歳を過ぎていらっしゃいます。
パートナーシップを極めた人生の先輩として、大変参考になるアドバイスが満載ですよ!