東大生の読書ライフ

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東大生による書評ブログ。

オウム真理教はなぜ生まれ、暴走したのか

 オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史ーロマン主義全体主義原理主義ー」

大田俊寛、2011年、春秋社)

 

最近、地下鉄サリン事件の死刑執行が行われましたね。

それがきっかけでYoutubeでオウムに関するドキュメンタリーをいくつか見たりしていたのですが、オウム真理教について体型的に分析した本を見つけたので紹介します。

 

歪んだ宗教はなぜ出現するのか

 

(前略)近代社会においては、もはや私的な妄想と区別のつかないさまざまな「宗教」が、数多く発生・繁茂するという傾向が生じた。同時にそれらの存在は、「信教の自由」の名において、一旦は擁護されるということになる。しかしそうした宗教が、国家からの保護を受けて成長し、徐々に社会的な影響力を持つようになると、その存在は「政教分離」の名の下に弾圧されることになるのである。近代において「宗教」は、原理的にこのようなダブルバインド的状況に置かれており、それがそのあり方を歪ませる大きな原因となっている。近代社会は根本的に、歪んだ「宗教」が数多く発生するような構造を備えているのである。(p45) 

 

近代では「政教分離」としてそれまで政治において中心的だった宗教を公の場から駆逐し、個人の私的な領域に押しやります。

 

それまでは政治と宗教が不可分だったので、宗教の正当性が重要視され、それゆえに派閥争いが戦争に発展したりもしていました。
しかし、その反省から政治と宗教を分離してみると、宗教はプライベートな領域で、各自が信仰の自由に基づいて行なうことになります。
そうすると宗教には正当性も何もなくなって、なんでもありということになります。信仰は自由ですからね。

近代社会には根本的に、宗教が乱立しやすい土壌が整っているのです。

 

 

生死を超えた「つながり」を作るのが宗教

 

宗教とは何か、という問いに改めて回答しておくと、私はそれを「虚構の人格」を中心として社会を組織すること、そしてそれによって、生死を超えた人間同士の「つながり」を確保することである、と考える。「虚構の人格」は、自然的には存在しない架空のものに過ぎないが、逆にそれゆえに、融通無碍にその形を変えることができる。そして人間はこれまで、さまざまな神話や儀礼を案出することにより、さまざまな「虚構の人格」を創設し、その存在に基づく様々なタイプの社会を作り上げてきたのである。(p32) 

 

特に日本人だと「宗教」について考える機会が少ないのではないでしょうか。

宗教がなくても普通に生活していけるじゃないか。
そう思うかもしれません。

 

普通に生活している分にはいいですが、「死」について考えるとなると話は違います。

なぜなら、宗教性を失った国家という枠組みの中で生活していても、国は人の死に関してなんら関与しないからです。

人は必ず死ぬし、それどころか国家が戦争により死者を出すこともあるのに、それをどう弔うかという問題になるとプライベートで「各自、勝手にやってください」となる。

 

死は避けられない。

「人は、死んだらどこに行くのか」という宗教的な問いからは、逃げられないわけです。

いくら政教分離で宗教を公にしなくなっても、死がある限り宗教的なことがなくなることはないのです。

 

人を惹きつけてしまう強力なカリスマ性と世界観

 

天地創造は終わっていない。少なくとも人間という生物に関する鍵地終わっていない。人間は超克されねばならぬものである。人間が神になる。人間は生成途上の神である。人間は自己の限界を乗り越えるべく、永遠に努力しなければならない。立ち止まり閉じこもれば、衰退して、人間の限界下に落ちてしまう。半獣となる。神々と獣たち。世界の前途は今日、そのようなものとしてわれわれの行く手にあるのだ。(アドルフ・ヒトラー第3章より) 

 

この本で引用されていたヒトラーの言葉です。

 

グロテスクでありながら、ドキドキするような神秘性があるというか、怖いです。

事実、当時の人々は彼の世界観に熱狂的に没入し、全体主義の惨禍へ巻き込まれて行ったのでした。

 

巨大な社会の中で、代替可能な一つのピースとして生きている自分を考えたときに、自分はなんのために生きているのだろう、と思うことがあります。

自分が生まれてきた意味、運命や目指すべきものはあるのだろうか。

このような迷いは現代人が普遍的に持っているものではないでしょうか。

 

そんな時、ヒトラーのような強力なカリスマが現れ、明確なビジョンを示すと、それまで全くわからなかった問いに対する「答え」が与えられ、一気に引き込まれてしまうのです。たとえそれがどんなに狂気じみていても。

みんなで一つの世界観に没入していれば、もう孤独ではありません。

 

 

 

南の島に行ってみたい

ミクロネシア学ことはじめ―魅惑のピス島編

ミクロネシア学ことはじめ 魅惑のピス島編」

(大塚靖・山本宗立、南方新社、2018年)

 

最近出たばかりの本です。

南の島でフィールドワークを行なっている研究者による著書。

写真がいっぱいで楽しいですが、内容は学術的な色が濃いです。

中の写真が全部白黒なのがかなり残念。

少しでもいいからカラーにすればいいのに…

 

 

命がけでウミガメを食す

ある日のこと、先日チューク州のある鑑賞でウミガメを食べた人たちが七人死亡した、といいながらウミガメをさばいている男性がいた。どうやらタイマイだったようだ。タイ米は海綿動物を主食とするため、これらが持つ毒素を体内に蓄積することがあると考えられている。そんなことを知りながら平気でウミガメをさばいている男性を見て、タイマイと他のウミガメをしっかりと見極める目があるのd去ろうか、それとも自分たちは大丈夫だろうという楽観的な考え方なのだろうか、いやいやそんなことを考えても仕方がない、とにかくその男性を信じてウミガメの肉を食べるしかない、と心に決めたことを今でも鮮明に覚えている。(p 141) 

 

ミクロネシアの人々は、陽気で楽観的な気質を持っているそうです。

南の島はみんなそんな感じなんでしょうか。

 

でも冷静に考えると、これは命がけの行為ですよね。

かなりドキドキしそう。 

 

 

ミクロネシア流「刺身」

 

ピス島は昔日本領だったらしく、現地で馴染んで使われている日本語があります。

 

その一つが、「刺身」。

 

と言っても、ミクロネシアの刺身はワイルドで、小さめの魚一匹に皮のまま格子に切り目を入れ、醤油をぶっかけてそのまま食う、というもの。

 

お刺身弁当の写真が載っていたのですが、シュールすぎて二度見どころではありません。

炊いたご飯の上にエンゼルフィッシュみたいなしましまの魚に切り目が入ったものが、適当な角度でぽーんと乗せられているのです。

これ、カラー写真だったら相当なインパクトだろうになぁ。

 

 

ミクロネシアでは犬も食う

 

島では豚や鶏が飼育されているそうですが、ちょっとしたパーティの時には犬も食べます。

 

さばかれた犬の写真があって、これも凝視してしまいました。

切られた首とかそのままで、顔がなんだか苦しそうでした。

 

でも、そもそも肉を食べるってこういうことだなぁ、と少し考えさせられました。

 

それにしても、表紙の海の写真が本当にきれい。

こんな海、一度でいいから行ってみたいなぁ。

 

ミクロネシア学ことはじめ―魅惑のピス島編
Posted with Amakuri at 2018.7.5
大塚 靖, 山本 宗立, 上野 大輔, 坂口 健, 川西 基博, 西條 喜来, ハフィーズ・ウル・レーマン, 北村 有迅, 高宮 広土, 西村 知, 中谷 純江, 浜島 実樹, 島田 温史, 河合 渓, 宋多 情, 谷口 光代

醜く、美しい恋愛

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな」(山崎ナオコーラ、河村書房新書、2004年)

 

タイトルといい、著者名といい、なんなんだこのインパクト…

前から興味はあったのですが、今になってたまたま見かけたので手にとって見ました。

意外と前に書かれていたんですね。

 

 

タイトルの意味

 

もし神様がベッドを覗くことがあって、誰かがありきたりな動作で自分たちに酔っているのを見たとしても、きっと真剣にやっていることだろうから、笑わないでやって欲しい。

(p111-112) 

 

恋愛は、本当は美しくて素敵なものというよりは、醜くて不毛で可笑しいものなのかもしれません。

恋愛をすればいつかは傷つけ合うことになるし、自分の醜さも晒してしまう。

 

どんなに可笑しくても、本人たちは大真面目なのだから笑い事じゃない、ということでしょうか。

 

実際、主人公で19歳のオレと39歳のユリの恋愛はかなりいびつだし、あまりうまくいきません。

 

それでも、作品全体のメッセージは恋愛とか人間に対するありのままの肯定なのだと私は思いました。

 

 

ヒロインのユリは、なんだか私と似ているような気がしました。

他人への関心が薄くて、マイペース。

それなのに、人と触れ合うことを求めていないわけでは全然ない。

人の心があまりよく分からないところも。