今、改めてマザー・テレサ
貧しい人々のために働くのは何のため?
私が呼吸するのも、ものを見るのも、すべてイエスさまのためなのです。人からソーシャルワーカーと呼ばれることには耐えられません。社会奉仕をしていたのだとしたら、わたしはとっくにやめていたでしょう。(p70)
マザー・テレサが社会の最底辺と言われる人々に奉仕したのは、神に仕えるためだというのです。
私はキリスト教徒ではないので正直意味が掴みづらいですが、とにかく「社会のため」ではないとはっきり言っています。
一般の人々が<死を待つ人の家>に立ちより、しばらくのあいだ、シスターに協力することもあります。患者の食事の世話をしたり、からだをふいたり、床そうじや調理のてつだいなど、それぞれ自分にできることをして帰ってゆきます。そういう人たちは、自分が特権を与えられ、何か特別なことでもしているような、とてもほこらしい気持ちになるのです。のちに、どんな人生を歩むことになるとしても、シスターたちといっしょに働いた経験は、きっと忘れえぬ思い出になることでしょう。(p120)
これを読んで、ちょっとモヤモヤしました。
「自分が特権を与えられ、何か特別なことでもしているような、とてもほこらしい気持ち」になっている人たちは、自分の優位性を確認して自己満足に浸りたいだけではないでしょうか。しかし、マザー・テレサはそのような人々のことも否定しません。
お金持ちがやってきてお金を寄付したいと言えば、受け取ることがその人に対する親切になると考えて、少しだけ受け取ったそうです。
きっと、神様のように全ての人に優しいのですね。
ネットで見た話ですが、東日本大震災のボランティアには、人間関係に行き詰まり、人から認めてもらいたい欲求がある人も多く参加していたといいます。
ボランティアがそれをする人にとっても救いになるのなら素晴らしいし、どんな動機でも良い行いは良いのかもしれません。
マザー・テレサは、コルカタの地以外でも、自分の家庭や職場などで周りの人に注意深く目を向けて思いやるように説いています。
この「思いやり」は、自己満足のためであってはいけない気がするし、そんな気持ちで何かしても却って傷つけることになってしまうのではないでしょうか。
社会奉仕ってなんだろう
p70の言葉を読んで、ちょっと考えさせられました。
社会奉仕ってなんでしょうか。
この場合の「社会」とはどんな社会で、誰が属していて、それがどんな方向性に向かうように働くことなのでしょう。
「社会」からあぶれている人は、現代日本にもいるんじゃないかな...
<死を待つ人々の家>で瀕死の人々を助けても、ほぼ助かることはありません。
これは「社会奉仕」でしょうか。
資本主義社会、合理性を求める社会では「無駄」と切り捨てられても仕方ありません。
本当の意味で人のためになる行いは「社会のために働く」のではまだ狭くて、社会のシステムを超越したところにあるのかな、と思いました。
日本神話の世界
一神教のイメージとは全く異なる、生命力の発露としてのおびただしい数の神々が誕生していたところが印象的でした。
神々の名前がひたすら列挙される部分が多く、どうしていいのかわからなくなりました(・_・;
地方豪族を神格化しようとした結果、数多の神々が生まれたとも言われます。
いやいや、神様じゃなくて人間でしょ!って思ってしまいましたが...
キリスト教入門書
平和について
今日は終戦記念日なので、平和についての内容を紹介したいと思います。
カトリックの第二ヴァティカン公会議(1962-1965)では、「現代世界憲章」を発表し、その中に世界平和に関する声明も盛り込まれました。
「個人の善が安全に確保され、人々が精神と才能の富を信頼をもって互いに自発的に交流し合わせなければ、地上に平和は獲得できない。他人と他国民およびかれらの品位とを尊重する確固たる意志、また兄弟愛の努力と実践は、平和の建設のために絶対必要である。こうして平和は愛の実りでもある。愛は正義がもたらすものを越える。」(p257)
50年以上前に出された声明ですが、 内容は普遍的で現代にも十分通用するものだと思います。
50年前と比較して世界はますます「狭く」なり、ヒトやモノ、情報の国境を超えた移動が盛んに行われる昨今ですが、世界は平和になったのでしょうか。
「正義と平和は相容れない」とも言います。
平和を実現するためには「こうあるべきだ」という理念よりも、むしろ多少納得いかないことがあったとしても「まぁいいじゃないか」という寛容な態度が必要なのではないでしょうか。
キリスト教とは
「キリスト教とは、きわめて簡単なものである。それは父なる神が、人間を無限に愛している事実にほかならない。父なる神が私たちを愛している。この神の無限の愛が、イエス・キリストの障害とその死と復活によって表された。イエスによって神が自らをこの世に与え、人間を自らの中に受け入れた。こうして、人々は神の愛を信じるように呼びかけられたのである。」(p270)
著者の恩師であるネメシェギ神父のお言葉だそうです。
移ろいやすい人間関係の中にあっては、不変の神の愛は魅力的に響きますね。