「戦争論」ロジェ・カイヨワ
「戦争論」のテーマ
この本は、「なぜ、人は戦争をしてしまうのか?」と言うことについて考察した、人類学者ロジェ・カイヨワ(仏、1963年)による本です。人間は戦争を求めている?
産業革命以降、戦争は大量破壊によって大量生産を支える、大量消費システムとして機能するようになりました。
「ハレとケ」という言葉があるように、退屈な日常の秩序を取っ払い、エネルギーを発散したいという欲求が人間には生じます。それが祭りや、戦争という形で発露します。
さらに、エルンスト・ユンガーは、戦争は人生に意味を与えてくれると言いました。
このような秩序をそっくり受け入れることのできる人間は、偉大なものとなり、その真の自由を見出す。人間にとってこの真の自由というのは、ある崇高な行動に全面的におのれを捧げることに他ならない。(p202)
「このような秩序」とは、戦争時に個人が従わねばならない厳しい規律のことです。
この気持ちはすごくわかるなぁ、と思いました。
何かに束縛されているとき、自分を束縛する存在に従っている限りは何をしていても正しいと思うことができます。
もはや「私、これでいいのかな」なんて思い悩む必要はなく、自分で判断する必要もありません。
だから、とっても楽に生きられるんですね。
支配や束縛というと厳しく、辛いものに聞こえますが、実は渦中にいる人間は意外と安楽な状態で、むしろ支配を自分から求めてしまったりします。
DVから逃げ出した人が結局相手のところに戻ってしまうことが多いのも、この心理です。
産業革命以降、工業地帯に人口が流入することで地域のつながりが切れたこと、世俗化が進んだこと、最近では家族のあり方が多様になったことなどから、生きる意味がわかりにくくなった人々は、生きる目的を渇望するようになります。
どんなに絶望し、人生が無意味に思えても、人間は意味なしには人生を生きることができないのだと思います。
そこにナショナリズムが入ってくると、そこにすがって、国家のために自分を捧げ、理性を超越したものすごい力に身を委ねることを人生の目的として見出すようになってしまうと言います。
「個人」という堰
100分de名著テキストの副題である「グローバルな濁流に、『個』という堰を立てる」がとても気に入っていて、この本の内容を見事に表していると思いました。
この本の最後では、絶望的なトーンではありましたが、人権意識をきちんと植え付けるような教育を行うことが戦争にブレーキを掛ける唯一の方法だと書かれていました。
国家のために自分の全てを捧げようというとき、その人の人格は消滅し、無名戦士として国家に利用される単なる道具となります。
だから、そうならないためには「個人」を保っておくということがとても大切だと思いました。
自分の頭で考えて、判断する。
正しいことや、自分が求めていることを行うというだけでは歯止めになり得ないので(戦争は正当化され、人間には戦争を求める傾きがあるため。)このような傾向を知った上で、内省的に向き合うことが重要だと思います。
そして自分という個人だけを固持するのではなく、他の個人も全く同じように認めて尊重すること、月並みに言えば「多様性を認める」ことに尽きるかな、と思います。
現代では「テロとの戦争」の時代になり、もはや相手が誰なのかわからず、戦時と平時の区別も曖昧になってきています。
平和のために行動を起こすことは、予断を許さない状況になっているのかもしれません。
なぜ、人を殺してはいけないの?
あらすじ
ロシアの貧乏大学生ラスコーリニコフは、学費が払えず大学を中退してしまう。歴史上の偉人は犯罪者なのか?
世界の歴史は戦争の歴史と言われます。
長い人類の歴史の中で様々な変革が行われ、その中でたくさんの人々の命が失われました。
しかし、命を奪った人間は英雄として後世まで讃えられる場合もあります。
人の命は平等に価値があり、奪うことは罪になるのなら、このことはどう考えたらよいのでしょうか。
私が思ったのは、歴史上の変革は地殻変動のようなものかもしれない、ということです。
例えば、ヒマラヤ山脈は大昔に島だったインドがユーラシア大陸に激突した結果できたと地理の時間に習いました。
そして世界一高い山・エベレストが誕生した訳ですが、そんな激烈な地殻変動が起こったらきっと周囲の生物たちは死滅したことでしょう。
エベレストは崇拝の対象にもなりますが、この地殻変動自体は単なる事実で、ヒマラヤ山脈がができて良かったとか悪かったとか、そういう話ではない気がします。
歴史にも地殻運動のように流れがあり、人間たちの意思とは関係なく動くときは動く。
あとは、戦争での大量殺人を正当化するために、英雄をわざと作っているだけです。
本当は戦争時においても一つ一つの殺人が罪だと思いますし、「正しい目的」のためなら許されるということはないと考えます。
ラスコーリニコフの「正義のための殺人」という考え方の方が暴力的なのであって、だからこそ神から罰せられてしまったのです。
償いの出発点
ラスコーリニコフが、最後に十字路で跪くシーンがあります。
(すみません、なんのことやらですよね(-。-;)
あのシーンですが、なぜ彼が自分の罪を認めるという不本意なことをしながらも幸福感に包まれていたのかというと、殺人という罪を犯したことにより社会に見放されて完全に孤独になったと思ったのに、神様だけは自分を見捨てていなかった、自分のことを見ていてくれて、罪という罰を与えてくださったのだ、と実感したからだと私は解釈しました。
人間みんな似た者同士
ラスコーリニコフは相当ストレスが溜まっていたと思いますが、それにしても彼のように「しょうもない人間は死んでも構わない」という考えを、ふと持ったことはないでしょうか?
ちょっと、ぎくっとした人もいたりして...
私も例外ではありません。
でも、その「しょうもない」というのは自分の狭い了見での決めつけだと思うのです。
実際、ラスコーリニコフは殺害した老婆の人生の全てを知っていたのでしょうか。
完全な悪人というのはいないと思います。
どんなに悪徳でも、その老婆に良いところは一つくらいあったはずです。
そして、ラスコーリニコフは老婆を断罪し生命を抹消しても罪にならないほど完全な人間だったのでしょうか。
小説ではむしろ、彼のいびつな(歪んでしまった)人格が目立ちます。
難しいことではあると思いますが、人間は皆似た者同士、どっこいどっこいなのだから、助け合って生きる努力は大切だと思います。
長々と書いてしまいました...引用も全然してないし、わかりにくいですよね(-。-;
ちょっとでも引っかかる部分があったら、ぜひ読んでみてください!
100年以上経った今も読み継がれている意味がわかりますよ。
今年は名著と呼ばれるものを積極的に読んで、教養ある大人になりたいと思ってます!!(いつまで続くかな...(^◇^;))
格差社会への処方箋を、歴史の見地から
「格差」の定義
「人の地位や役職につけられた序列や上下関係」を「序列」、そして「序列の固定化によってできた、にわかには越えがたい一線」を「格差」と呼びたいと思います。(p17)
格差の本質は差があることそのものではなく、差が固定化したものであるとしています。
確かに、全く差がなくて均質というのもちょっとありえないし、それはそれで弊害が大きい気がしますね。差はあっても、努力次第で乗り越えられるものならば、そこまで格差意識や差別にも繋がらないのでは。
安定が格差をつくり、混乱が格差を壊す
(前略)良くも悪くも社会や国家は「安定」によって序列を固定化させ、格差を生み出しがちです。逆に「混乱」が良くも悪くも序列を崩し、格差を解消することが多いことも確かです。これは、社会秩序の変質が格差にも表れるということで、つまり時代の「画期」をもたらすものでもあるということです。(p27)
安定した社会に格差はいつもあった、というのが歴史の教えるところのようです。
もちろん、それが良いことかどうかは別の問題ですが。
格差は是正していくべきだが、社会の混乱は避けたいというのは、難しい問題なのかもしれませんね。
「格差社会」はなぜ生じるか
歴史を振り返った上で現代の日本社会を見ると、身分や家柄のように生まれながらにして決定づけられるような格差の面では、史上最高に平等な社会が実現していると言います。(前略)日本には、「一億総中流」と称されるような平等社会が実現していたと見ることができます。このころの状況があたりまえのように捉えられ、現在の「格差社会」論の前提になっていることが多いようです。(p242)